読書は、凝り固まった考え方を解きほぐしてくれる。言葉と思考の渦に身を任せ、先入観や他者の感情を取り払ってこそ、私は私の本当の気持ちに気付けるのだろう。
● 一人で過ごすまとまった時間によって、価値がうまれる
●「ひきこもる」ということを真っ向から否定するのは喜ばしいことではない
ということを、本書は伝えている。
本書の中に不登校について考える章がある。私はこの章に大いに共感した。
教室の真ん中から後ろの席というのは、全体が見渡せてしまう。そうした席に座る際、もやもやとした黒い煙のようなものが私には見えていた。それは、現実には見えないし、私の勝手な感覚だから証明は出来ない。けれど、吉本隆明さんはその「もやもやとした何かわからないもの」のことを
「教室に流れている 嘘っぱちの空気を、ぼくは「偽の厳粛さ」と呼んでいます。」p55参照
と表現されていて、的を得た文章だ!と思わず叫んでしまった!
いじめがあるのに、それに気付いてるのか気付いてないのか見ないようにしながら真面目に授業を進行させる先生と、それを真剣に聞いているように見せる生徒
その人のことをよく思っていないのに、にこにこしながら挨拶をしたり仲良くしたりしているグループ
昨日まで仲良くしていたのに、次の日何が原因か分からないまま、そこにいない人として不自然な避け方をする友達だった人(あとで、これは私への嫉妬のようなものが関係していたと分かりました)
君のことを考えているよ!と心配しているように振舞いながら、実はめんどくさいなと感じていて、本人が本当に気に入っている生徒は、明るくてクラスをまとめてくれる人だったり、ワルぶってる人だったりする。
などなど、あげたらきりがないくらい嘘っぱちな空気は溢れかえっていたなぁと思い返してしまう。
今なら、もう少しうまくやれたかなと思うけれど、全力だったあの頃は、本当にそこにいるだけで苦しい気分になったものだ。合わせよう合わせようと必死で、途中不登校になりながらも、なんとか頑張っていたな。学校も苦しくて、家では親も心配してくれるから、有り難いけど病気じゃないからこそ、どこにも居場所がない気がして、よくこっそり図書館や本屋に逃げていた。それでも罪悪感はあった。元気なのに休んでいるという罪悪感。
休めとか、ひきこもるべき、と言っているのではなく、ひきこもることを「悪」と捉えないで、もう少し「見守ってもらえたらいいな」という気持ちが周囲にあると良いなと思った。自分の子どもが、不登校になったら、そりゃ焦るだろう。
でも「余計なことはしない」この言葉を肝に命じて芯を持って、子どもとも、自分の感情とも付き合っていけたら良いなと感じた。ほっておく、という意味ではなく。
「問題は、親が子どもにどう接するかではなく、親自身の心の状態がどうであるのか、ということなのです。」p86参照
私は不安定な人だと自分で思う。
だから、怪獣くんが不安定になると、あぁ、私が植えつけてしまったものなのかなと思って、とにかく叩かれても痛くても抱きしめるしかないと覚悟を決める。
自分では分からないうちに、怪獣くんを傷つけてしまっているのかなと感じることもある。そうしたときは、とにかく私の気持ちや、何故悲しい気持ちなのかを、お膝に乗せて話す。理解すると「それじゃ、お手伝いするよ!」とか「ママ、泣いてもいいよ」とか、どっちが大人か分からないような対応をしてくれる。
子どもはよく見ているなと思う。言動に気をつけようと思う。けれど、なかなかうまくいかない。親の影響を、吸収していると怪獣くんを見ていて感じるので、私に出来ることは立ち止まらず前を向いて、生きることはそれだけでワクワクして楽しいんだぞ!と背中で語ることなのだと感じた。
「10年続けないと一人前にはなれません」p121参照
性格的に飽きっぽいので、10年続けているものって何もないなと思う。断続的にであれば書店員として働いていたのは10年くらい経つ、かな。でも、やっぱり一人前と呼べるものはないのかもしれない。
怪獣くんに関して言えば、お腹の中にいたときから「怪獣くんノート」を作ってて、まだ続いている。だから、5年。
「怪獣くん用読書ノート」であれば、3年続いている。
自分自身のことで続けられるものを、きちんと見つけていきたい。ブログでもなんでも。何か1つでも。
吉本隆明さん「ひきこもれ」は、「このままなんとなく、あとウン十年も生きるなんてマジ絶望」 という本の中で紹介されていたので、読んだ。
読んだ感想はこちら↓
https://nikoniko-days.hatenadiary.jp/entry/2019/10/14/100658
本を関連づけて紹介するのは、私にはとても難しい作業だと身をもって知っているので、他に紹介されている本も、読んでみたいなと思った。
本が私を救ってくれるのは、昔も今も変わらないなと、強く思う。